昭和五十一年十二月二十一日朝のご理解
                            松永享四郎

ご理解第七十八節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」


 み教えを受ける姿勢で、一番大事な事は、それを信じて頂くと云う事です、まず、疑いを去ると云う事である、教祖様が嘘の教えをなさったてられるとは思われん、と云う程にそれを確信して、み教えを頂かなければならんと云う事です。
 ところが、それこそ、数限りないお道の信者、信奉者で果たして、代勝りのおかげを受けておる人、また、家庭がどの位あるだろうか、教会に於いても同じ事、先代の時には、隆々たるごひれいであったのが、二代三代になって行くに従って、代勝りではない、代すぼりになって来る、どう云う事であろうか。
 普通の信者、家庭に於いても、先代の時には、ああ云うおかげを受けておられたのに、二代三代になったら、もう信心の気もない様になってしまう、と云う様な信者家庭が、余りにも沢山あると云う事です。
 如何に、神の機感に適うた信心と云うものが、出来にくいかと云う事がわかります、ですから、代勝りと仰有る、私共が、代にならせて貰う者が、しっかりと基礎と云うか、土台と云うか、その台を確実なものを、確立しておかなければ、代勝りにはならないと云う事です。
 現在、今、合楽でご神縁を頂いとる人達は、その云うならば、初代である、私は、その自覚がいると思うですね、それは、二代三代と信心が続いておると云う人もありましょうけれどもです、けれども、その台は一遍つくり直すと云う様な、私は気持ちがいると思うです。
 絶対の間違いのない土台を、云わば台作りなんです、云うなら基礎作りなんです、でないと、この七十八節と云う、この素晴らしいみ教えが嘘になってしまう、勿論、ここには、神の大恩を知れば、無事達者で、子孫も続き、まず本当の意味に於いての、神の大恩を知る事である。
 同時に神のおかげを知らぬから、互い違いになって来ると、神のおかげを知る、神のおかげを信ずると云う事です、そう云う意味で私は、神のおかげを知るには、今の合楽のお広前に、お引き寄せを頂いたが、一番判ると思う、目の前で、いうならば、おかげを知る事が出来る、目の辺りに見る事が出来る。
 疑おうにも、疑う余地のないほどしの、おかげの事実をそこに見る事が出来る、神のおかげを知る事が出来る、神の大恩を知らぬから、神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続きと云うおかげが、神の大恩と云うかね、所謂、神の大愛とでも申しましょうか、合楽的ですね、それの方が、神愛です、神愛を知るとか、判るとか云う事は、神の大恩が判ると云う事と同じです。
 昨日の、お話の中に、原さんが云うておられる、どう云う場合であっても、心を神様に向けたら、有難うなると云うておられる、どう云う悲しい思いをする時でも、どう云う腹立たしい思いをする時でも、一度心を神様に向けると、それは、有難いとお礼申し上げる事ばっかりなのです、それは、どう云う事でしょう。
 神の大愛を知っておるし、体験して来ておるからだと、私は思います、神様が下さるものに、決して毒なものはない、親が子に与える者に、毒するものがある筈がない、それは、にがいかも知れん、臭いかも知れん、けれどもそれに依って力を与えて下さろうとする働き以外にないと、それを、体験を積んだ上にも積んでおられるから、どんな場合であっても、心をひとたび神様に向けると、お礼を申し上げる事ばっかりにと云う事になる、ね。
 云うならば、合楽理念を理屈ではなくて、もう、五体で感じられる、云わば、合楽理念が、理屈ではない、もう一切の体験がそのまま血肉になってと、云う風に昨日は申しましたね、まさにその通りなのです、神の大恩を知ればと云う事を、私は、神の大愛を知る事だと思います。
 そう云う意味合いで合楽理念をのマスタ-と云う事がです、どんなに素晴らしい事かと、それはどう云う事になるかと、無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事賀出来れる、その要素になるものです、ね、合楽理念はその様に素晴らしい事なんです。
 だからね、それを信じて頂く事です、だから、なら、今までの金光教の信心を沢山して来た人達がです、代勝りどころか、無くなってしまったり、末細りになっておると云う事実がです、如何に神の大恩を知らぬ、只おかげだけを頂いて、絶対の信心、教祖様が教えて下さる、絶対信と云った様なものを身に受けていなかったかと。
 まあ、昨日のご理解をかりると、立教神伝そのものが、私共、信心者、お道の信奉者のすべてが、立教神伝を受けた様な心持ちで、信心生活をさせて貰わなければならない、あいよかけよで立ち行くと云う事は、私共が、おかげを受けたら、神様が助かって下さる事のための、云うなら神願が成就する事のための信心を本気で見につけなければならない。
 今、合楽で、合楽教会大発展の御神願成就と云う事が、皆さんのご祈念の中に必ず入っていると思うのす、ね、合楽教会にかけられる天地の親神様の願いと云うものが、どうぞ、成就致します様に、その為の修行であると云う様な信心をさせて貰わなければならない、そう云う信心がなされる限りです、神の大恩を判らせて貰う様になる、神のおかげをなおさら判らせて貰う様になる。
 昨日、そこの合楽食堂の中村さんが、お参りして見えて、もう先生今日のご理解を頂いとって、まあ、毎日の事ながらです、昨日の事を、今日神様が、参るたんびに云って下さる、教えて下さると云うのです、実は、昨日、徹美さん、息子です、云うならささやかな店、食堂を女手一つでまあやってきた、普請の時、相当の借金を負ってやってきた、おかげを頂いて、年々歳々、その借金払いも出来て、此の何月前に、綺麗に借金が済んでしもうて、まあ云うなら一安心と云う事である。
 ところが、徹美さん、それからこっちというものは、なら、借金払いをしよった、借金だけは払いよったっちゃから、残らんならんのに、一つも残らん、これは、私とあんたが、もちっと考えなきゃいけない事よと話をしとったそうです。
 昨日、私が皆さんに申しましたよ、十年祭と云う記念祭を目指して、お互い、信者、信奉者として、どうあらなければならないか、云うなら、合楽教会大発展の御神願を本当に祈って、願っておるならばです、その十年祭を又、一つの土台として、それから、枝も出る、葉も茂って行く様な、おかげを頂かねばならんのですから、その十年祭を目指して、お互いどう云う信心の心構えを持っておるか。 遠隔地で、手紙でお届けをされる、おかげの泉でおかげを受けておると云う人達が新聞を見たり、おかげの泉を見たりして、こんどの新聞を見て、典楽会が、云うならば、愈々充実したものになって行くと聞いて、どうでもささやかながら、琴を一面、記念祭までにおかげを頂きたいと云う願いがあったり、十年祭を目指して、せめて、百万円はおかげを頂きたいと思いますから、おうぞ、お繰り合わせを頂きます様に。
 これは、昨日だけじゃない、何人もあるです、然も、とてもあなた方で出来ると思われないと云う人が、お届けしています、これは、自分の持っておるものから、お供えするとか、奉仕すると云うのじゃないです、持っておる以上の力、持っておる以外のお繰り合わせを頂いての事なんです。
 例えば、なら、お商売の上にです、毎月毎月なら、今の合楽食堂じゃないけれども、ね、普請をさせて貰うて、その支払いが済んだ、だから、今まで支払いしよった分が残らんならんけども、残らないところにです、神の働きを察知して、今までは、神様のおかげを頂いておった事がはっきり判った。
 そこで、より尊い事、より大事な事に、例えば、記念祭なら、記念祭に向かってです、せめてその借金を払うて毎月行きよった額だけでも、記念祭に向って、おかげを頂きたいと云う願いをも持っておったらです、おかげを下さらん筈はない。
 もう今朝のご理解を頂いてから、その事を実感したと、昨日はです、中村さんがそう云っておられます、だから、決して自分が出すのではない、おかげを頂いての事である、そして、それがなされた時、どう云う事になるかと云うと、百万円なら百万円のお供えが出来たら、百万円の、それが徳に、力にならない筈はないと云う事。 いつも、文男先生が申します様に、此処の第1回のご造営のの時に、その時の百万円と云えば大した事だった、当時の文男先生としては、とても、とても、手も届かん程しの大金だった、商売始めたばっかりの事だから、それとても、止むに止まれん、思い、願いをもってさして頂いたら、それが、云うなら2年間かかって、2年でも、5年でも、10年掛かってでもおかげ頂かんならん、と思いよったが、2年も掛からずに、それがおかげを頂いたと、云っておるでしょうが、そして、それ以来、私は、百万円と云う金だけは、不自由しないと云うとるでしょうが、だから、それが如何に力になるかと云う事が判るでしょうが。
 だからそう云うものを、頂きたいからすると、云う条件がついちゃつまらんです、ほう、そんなら、百万円よか、1千万円頂けるおかげを、いっちょうお願いばしよう、そりゃ、ズ-にも適わん様な事云うたっちゃつまらん、そすと、こんどは、1千万円の徳を受けるだろう、まあ、それを昨日、私が申しました様に百万円出来んなら、50万、10万出来んなら、例えその時は、5万でも、纏まった金を何とかしたい、せめて、一人でまあ、十俵か、二十俵位お供えしたい、そう云う願いを立てて、お取次ぎにも度胸が要るです、確かに度胸が要るのです、そして、それに取り組むのです。
 記念祭におかげを頂く、又は、それだけの徳を受ける為にと云った様な、ケチな条件があっては、徳を受ける事は絶対ありませんし、おかげを頂ける筈はありませんね、そこんにきは、止むに止まれぬ無条件の信心、そう云う信心が繰り返しなされておる時に、神のおかげを実感として、受けとめる事が出来、神の大恩を、愈々知る事が出来る様になるのです。
 昨日、菊栄会が、私、晩遅う私ががここに出て来てから、菊栄会が終わろうとする前だった、昨日、午後から、福岡の浅野さんと云うかな、お参りして来て、今、大変なところ通っておられる訳ですけれども、先生、私はどう云う信心させて頂いたならば、おかげ頂くでしょうかと、この方は、ある教会で熱心に信心して、大変なご用の出来た方ですけども、倒産して、云うなら、神も仏もあるものかと云うところを、此処で、おかげを頂いとる人が、お導きをして、兎に角、合楽に一遍お参りしてごらんなさいと云うて、お参りして、又、新たな会社を創立して、今、一生懸命、云わば、鎬を削る様な、仕事に取組み方をしておる人なんです。
 昨日、参って来て先生どう云う信心さして頂いたならば、おかげ頂くでしょうかと、ところが、不思議にね、他所の教会から参って来た人は、合楽のご理解を非常に軽く見とるです、不思議です。
 それが、今まで、しかたむなか話ばかり、聞いて来とるもんじゃけん、もうそげな話じゃろうと、もう金光教の事は知っとると云うのでしょうね、これは不思議です。
 もう合楽に来て、ご理解頂かなかったら、もう合楽の値打ちはないですもんね、もう生命です、合楽のご理解は、もう福岡からわざわざ参って来る者に限って、絶対頂いて帰らん、ご理解を、こうこうとこっちから云おうごとあるばってんね、遮利無理聞かせたっちゃ、これが入らんのですから、もうご理解を頂く事を楽しみに、有難いと思うて参って来るとでなからなからねば、身につきませんもん、だから、云いません。
 そげんしとってから、なら、先生どげな信心したならば、おかげ頂くでしょうかと云う事を、まあだお伺いをされる訳です、さあ、そこは、自分で考えにゃ、私が云うたっちゃ判らんばの、例えて云うならばです、今日のご理解を頂きなさい、ちゃんとヒントは与えられとるよと、云う風に、私が云わんです、頂こうと云う気にならなければ、そしたら、その次に云われる事が、こう云う事を云われるのです、先生、今度、10年祭の記念祭はこちらであるそうですが、その組織作りしておると云う事でございますが、その組織の中に私が入ってないと云う訳、だから、その組織の中にどうぞ私もかてて加えて下さいと、こう云う訳なんです。
 だから、私はそう云う事があったから、昨日、菊栄会があったから、浅野さんが、こげん云いよるけん、浅野さんば、組織の中に入れといて呉れんの、やらそうと思えば、この人はどげな事でん出来る人なんです、そこの教会で新聞作りなんか、一人でやっとったと云うんです、と云う位です、青年会でも大変力強いご用頂いて来た人なんです、だから、やろうと思えばどげな事でも出来る人ですし、又、自分もやって来とる体験があるから、そう云う願いをされた。
 私も、その組織の中に入れて下さい、そりゃお取次ぎさせて頂きましょうが、浅野さん、あんたが、どげな信心させて頂いたならと、今、云うたが、そればい、その事ばいと云うて、私が話ました、お役に立ちたいの一念を、もっと垢抜けして持つ事なんだよ、そこに、あいよかけよの道が開けて来るのです。
 今日は、皆さんに代勝りのおかげが受けられる、それを、大体信じなければいけないのに、金光教の沢山の信者、信奉者がです、代勝りのおかげ頂いとる人が、殆ど無いと云う事なんです。
 そうすると、教祖様がウソを仰有った事になる、そして、ならご理解と云うものが、信じて頂けない事になって来る、一生懸命信心もしてござった、お日参りもしござった、様々なご用も出来ござった、だから、おかげを頂いて行きよんなさったけれども、子に孫に伝わっていない事はどう云う事か、私は、土台が、台が本当じゃなかった、只、一生懸命信心しよったと云うだけであった、土台と云うものが、一線上までに上がっていないからだ。
 そう云う意味で、合楽理念と云う事が云われますが、私は、昨日大変有難いと思ったのは、福岡の宮崎先生が、神愛会に出て来ておりませんでした、だから、昨日お礼に出て見えられました、まあ、いろいろ金光教の詳しい事を、大変詳しい方ですし、また、いろんな、役職が、いろんな役を受けておられますが、大変、私どもが知らぬ様な事を知っておられますが、「それが、先日から、私はガッカリした事があります」「どう云う事ですか」
 もう今、金光大神覚え、あれを英訳をしよんなさいます、ご本部から依頼を受けて、ところが、先日から、ある先生が見えてから、「宮崎先生、あんたこれば一生懸命やりよるがね、今の、ハワイとかアメリカで、この英訳をした、この金光大神を、それば説いて明かしておかげの頂かせる先生があると思うのち、あんた、そげな事をしても無駄が」と云われた、「ほんに、考えて見りゃ、折角英訳を、なら、アメリカ人でも、ハワイ人でも判る様な云わば、あちら言葉にしてもです、それを説いておかげ頂かせきる先生が居らんじゃないのと云われて、本当にガッカリしました」と云われる訳です。 どうでもここに、合楽の信心がです、云うならば、今の合楽理念が確立して、それが、英訳されて、それが、ポルトガル語に直されて、南米なら南米、南米はポルトガル語ですからに、移し変えられて、そして、合楽のごひれいをもって、それこそ、どこのどう云う人間だって、貧争病から救われたい、貧争病のない生活をしたいと云う願いを持たない者は、誰もおらんのだから、……
 私は、昨日お話を聞かせて頂いとる内に、兎に角、今南米では、特にブラジルではですね、創価学会、それから、生長の家、それから、立正校正会と云う、この三つが、大変な勢いで伸びておるそうです。
 この三つが、卍巴(まんじどもえ)になって闘いながら、あの宗教は闘う宗教ですから、闘いながら、それでいて、どんどんあちらの人達、日本人ではなくてね、もう内地で持っておる信者よりも多いそうです。
 私は、それを聞いて大変心強いと思いました、あん位の信心でさえ、あげん繁盛しとるなら、末永先生が、合楽理念を持って、それに挑戦して行くならば、もうそれこそ、テ-プをどんどん送る様なおかげを頂いて、言葉は判らんでん、おかげを頂きに参って来る。
 そして、合楽理念を叩き込んで行くと云う行き方になったら、もう本当に、南米のブラジルだけじゃない、南米に云うならば、外地の人達にそれを徹底して行く事が出来る、そんな話も昨日、宮崎先生がしました。
 もう合楽理念と云うものは、その位に素晴らしいものなんです、そして、又、嬉しい事を聞きました、どうしても、その合楽の信心を皆が判ろうとしないし、今まで、学院をあんまり立てなかったものだから、もう潜在意識の中に、合楽は間違うとると、思うてしもうとると云う話をした時でしたけれども。
 ところが、そうじゃないですよ、もう本当に云うならば、合楽の信心を頂こうと云う一歩手前までありますよ、この頃、教務所でも、本部でもそんな話を聞きます、所謂、合楽の信心をと云うのじゃない、けど、合楽でおかげを頂いておる様な理論が、整然として、そして、金光大神の信心にはこう云う深さがあって、そして、こう云う風に現実に助かって行かねばならない、そう云う信心に向きを変えねばならないと云う、話がどこへ云っても出るそうです。
 そして、合楽で云われる一歩手前までの話が出るそうです、そりゃ嬉しい事ですけども、私は、それで思わんですけれども、そう云う事になったら、合楽にど-っと押し寄せて来るならば、とても合楽で受けきんなさるめ、と云いました。
 もうそう云う寸前にあると云うのです、だから、合楽へ合楽へと、こんども、学院生が10人ここに勉強に来るんです、だから、そう云うのが本当に、合楽の信心を、本当に合楽の信心と云うと、可笑しいですけど、金光様の信心の云うなら、ここが信じどころだと云うところをです、そりゃもうおかげに繋がる、奇跡にも繋がる。
 昨日も参っとられます、昨夜から泊まっとられます、もう永年、蓄膿症で、大変難儀で2回も手術をしたけども、ここで、ご祈念をしておる内に、一つの感動が湧いて来た、ご祈念が終わった時には、鼻がすとすとするごと終わとった、そこに参っとられます。
 そう云うおかげ、例えばブラジルの地でも、皆が受けてご覧なさい、病気の無い国はありません、貧争病の特に多い国です、勿論人間関係なんかの上で、おかげを頂きたいと願わん者は一人もありませんのですから、そう云う実際おかげを持って、合楽理念をひっさげて、そう云う信心を台にする信心者が、今まで金光教の信者の中には、少なかったと云うより、無かったと云うと云う事なんです。 だから、代勝りのおかげになってない訳です、だから、合楽理念と云うて、それを皆さんが、信心の土台にして行くならば、これが、子に孫に伝わったならば、代勝りのおかげにならない筈がないと云う訳なんです。
 なら、これほどはっきりと、絶対間違いのない、この船に乗りゃ、この汽車に乗りゃ、間違いなしにブラジルに行く、この汽車に乗れば、間違いなしに東京に行けると云うならば、その事をはっきり明示しておるのが、今の合楽です。
 だから、それに乗り遅れない様に乗らなければいけないと云う事ですよ、やはり、ね、そこから云わば台が出来る、もう絶対狂いの無い台が出来る、此の台に、私は、代勝りのおかげが、約束されるのだと思うのです。
 どうぞ、この七十八節を素晴らしいご理解です、けれども、これを信じて聞かなかったら、やっぱりシダゴダです、けれども、どんなに考えても、百年たった金光教の中に、代勝りのおかげを頂いた人は、こう見渡したところおさん訳です云うならば、だから、これは、本当のこっじゃなかじゃろうかと云う気がするんですけど。
 それは、しっかりした台じゃなかったから、代勝りになってないと云うだけの事、云うなら、今の合楽理念を土台にしてからの、信心であるならば、絶対、教祖様の教えておられる、1年勝り代勝りのおかげが、受けられる事は、私は、請合いだと、確信します。
 問題は、その台が、しっかり台を作らして頂く皆さんは、その初代に当たるのですから、初代がその台を愈々、確固たるものにして行かなければならない、又、そう云う代勝りのおかげ頂く為の責任があるです。
 その為に間違いのない、もう合楽の信心は、これ以上の事は云えない、只、この信心を限りなく進めて行くと云う事には、限りがありませんけれども、その絶対の土台だと云う、云わば合楽の信心が、完璧の域に入ったんだと、皆さんも完璧に入った、大変な難しいことか、至難な事かと云うと、決してそうじゃなくて、云うならば、本気でその事に取り組まして頂けば、本気で信心を勉強しようと云う気になったらです、本気で稽古をしようと云う気になったら、誰でも出来る。
 云うならば、そう云う意味でもです、今なら、南米ブラジルでですね、その創価学会とか、生長の家なんか、発展しよるのなんか、もう合楽理念を以ってしたら、誰も太刀打ちが出来ないと思うです、こりゃ本当にそうですよ、そして、誰だって、そんな難しい事を覚えなきゃならんじゃなくて、もう、兎に角、兎に角ね、天地の中には人間を助けずにはおかんと云う働きがあると云う事。
 なら、その働きを受ける為には、天地の心を知らなければならないと、云う事、天地の心とは、教祖は、天地日月の心と云うとられる、その天地日月の心を具体的に、しかも、誰でも頂けれる様に噛み砕いて教えてあるのが、合楽理念です。
 だから、絶対天地の中に住む人間がですね、幸せにならん、ならんごと云うならば、とても難しい、因縁とか、それこそ、様々な難しい云うなら、宗教論ですかね、を以って、例えば闘うごとなりましても、もう合楽理念、云うなら、厳密に云うと、和賀心です、を以ってするなら、そこの前には何にも、云うなら、そげな簡単な事で、おかげ頂くじゃろうか、と云う事になりますけれども。
 実際、そこに奇跡が起こるほど、見せながら行くのですから、間違いないです、和賀心と云うのは、それこそ、因縁も即座に消えるばい、罪もそのままなくなるよ、と云う程しの事ですから、立ち向かうことは出来ない。
 今、私が云っている、金光教の信心、所謂、金光理念と云うて良いけれども、まあ、それを合楽理念と云ってる訳ですけども、だから、そう云う素晴らしい事がです、そこのところを、今、教団でもその一歩手前のところを、今、追及している訳です。
 だから、合楽のそう云う、云うならば、宝庫の様なものです、その戸が開かれて、そこに皆が入って来る事になったら、そら、今合楽で受入れ、ど-っと来ますよ、と云うて、宮崎先生がそう云うておられます。
 ですから、そう云う云うならば、土台になるものを、今は、もう来る日も来る日も一生懸命、合楽理念の取組み、合楽理念をマスタ-すると云う事が云われておりますけど、本気で、今まで何10年して来た信心を、もう一遍改めて見た、原さんじゃないですけれども、ひとたび自分の心を神様に向けたら、どう云う場合であっても、有難いと云う答えしか出らないと云った様な、これは、実際に合楽理念をマスタ-しても、その心の状態を、開けてこなかったら、駄目です。
 そこから、愈々年勝り、代勝りのおかげが受けられる、子供にも、孫にも、それを伝えていけれる、おかげを頂いて、成るほど、教祖の神様が、嘘を仰有っていなかったと云う、お互いその実証者にならなければならないと、云う事でございます。    どうぞ。